人間の良心と宗教について



人は生まれながらにして善?

あなたは「人は生まれながらにして善である」と唱える人だろうか。
もしもあなたがそうだとして、もしも大多数の人間もそう考えているとしたら、人間は救いようがない。
僕の場合、どうしてもどちらかを答えねばならない場合は「人間は本来悪だ」と答える。
しかしそれ以前に、生まれた時点でその者の存在を「善」か「悪」の枠に当てはめる事自体に疑問を感じるし、善悪の定義自体に疑問を感じるというのが真意だろう。

人間は現在、自然の食物連鎖の外側に存在するが、だからといって特別な存在ではなく、他の動物と何ら変わらない本能を持っている。
例えば“生存本能”。
動物が生存するためには、生きるためのエネルギーの補給が常に必要となる。
その行為は、他の生物(動物・植物を問わず)の犠牲が必須となる。
そういう意味では、どんな生物も他の生物を殺している。
また、生存するためのエネルギーの確保のために同類の生物同士で争い、場合によっては殺し合う。
これは、どんな生物においても同様だ。
それが本能であるが、それを人間の作った善悪の観念下で評価すると、その本能自体が悪とされるのである。
だから、僕は「人間は本来悪である」と答えるのだ。

社会で成長すれば、人間はその社会から理性を埋め込まれ、その理性が善悪を判断するわけだから、本能を理性に覆い尽くされる以前の人間は、理性に覆い隠された後の人間から見ると悪そのもののはずである。
そういう意味での「悪」だ。
もし、人間社会以外で育った人間がいたとして、その者が自分の生存本能に従って動植物を襲い、殺し、食べたとして、それを人間社会にいる我々の規範で判じれば残酷であり、「悪」として映るであろう。
しかし、自然界においては、まさに自然の行為である行為を、悪と判じることに何の意味があるのか。

当然、無意味である。


宗教でいう『神』と、善悪の観念が生まれた訳



では、人間社会における善悪の観念である『モラル』とは何であろうか。
何の必要があるのだろうか。
『モラル』とは、理念としては『人間の集団(社会)維持のためのルール』に他ならない。
人間にモラル無くして集団を維持できるであろうか。
不可能である。
動物社会は人間社会に比べてとても小さい集団であるが、それでさえ最低限のルールは存在している。
そのルールこそがモラルであり、ルールを守る者を善とし、破る者を悪として定義しているのである。

遙かな過去、人間の集団単位が小さい頃は、より本能的なルールであったろう。
例えば、狩りの役を負う事になる男子の生存率は、集団の食生活、ひいては集団全体の生存率に関わってくる。
しかし、経験が浅く、洞察力に欠ける子供や若者は、何の制限もなく生活していれば、無駄な死を迎える事もあったろう。
そこで年長者は、自分の経験から、子供や若者にとって死の危険に繋がる可能性がある行動に制限を設ける。
凶暴な動物がいる可能性のあるエリアへ立ち入りを禁じる事はもちろん、例えば「憎しみ」によって殺し合いになるような危険を排除するために、憎しみを生むような行為を禁じたりもする。
それらが集団維持、ひいては全体の生存率を上げるためのルールなのだ。
しかし、そのルールは年長者の経験から構築しているのであって、制限される側は経験していない、感じたことのない危険なのである。
危険を知らない者にとって、そのルールの必要性や価値は計り難い。
実際に危険に晒す事が認識するに最良だが、それで命を失ってしまっては本末転倒であるし、常に危険があるわけではない場合もある。
そこで、ルールを守る必然性や、ルールを破る事への危険性を強烈にイメージさせる何かが必要となる。

その方法として、ルールの本質の危険性を知らしめるのではなく、ルールを破る者に極刑を与える事によって、ルールを破る事自体への恐怖心を植え付ける事によって、ルールに則させる方法をとったのである。
この時点で、人間が人間を縛り、人間が自分達の生存率を上げるために作ったルールに自らの命を絶たれる事、すなわち人が本能ではなく理念によって人を罰し、命を奪う環境が発生したのだ。
実は、それは大きな問題であった。
人が、同等であるはずの人を罰すると、そこに怨恨が生じる事もある。
その怨恨が元で集団維持に影を落とすことにもなりかねない。
その問題の解決策として、人ではない者に罰せさせる事にしたのだ。

それが、人智を超える架空の存在、『神』である。
そして、架空の存在であるはずの者を、あたかも存在する者と認識させるために緻密な神話を作り、またその神話自体にルールと、それを守る事の意義と、守る事により与えられる褒美(アメ)と、破った者への罰(ムチ)を含ませたのだ。
これによって人が人を裁くのではなく、神が人を戒め裁くという定義が生まれたのだが、それが同時に現代まで続く不条理を生む原因になった。

それは善悪の定義の根本の錯誤である。
元来、人の作ったルールに則すか破るかによっての人の集団の中での善悪であるはずの定義が、地球上に生きる者全てを超える存在である神が定めた絶対的な善悪の定義となってしまったが為に、自分の所属する集団が守るべきルールの域を超え、全ての事象や存在を同様の善悪の尺度で測ろうとする思い違いが生まれることになったのだ。
また、我々を神の子であるとか、誰もが仏陀(覚者)になれるなどというモラルを守らせるためのアメも、人間の傲慢を生む土壌となっている。


『神』によって歪められた戒めの訳



ここで当初の論点に戻るが、前述した「人は生まれながらにして善か、悪か」という議論の根本には、この思い違いから生じた無意味があるのだ。
ルールを知らぬ者がルールを破るのは罪だろうか?
そしてその行為から悪であると評価すべきであろうか?
当然、それは無意味だ。
戒められている事を破戒する行為は、その集団の中で罪であろうが、生まれたばかりの者は破戒と知って行動するのではなく、本能(欲求)によって行動しているのである。
それを罪と呼び、それを悪と呼ぶのは、その人の傲慢であろう。
しかし、傲慢を承知で敢えて人間社会が作り上げた善悪の基準で人間の根本を計ろうとすれば、上記の通り「悪」である。
戒めという制限がなぜ必要なのか考えて欲しい。
それを人の本能(欲求)が求めるからだ。
しかし、それでは集団維持に支障をきたす。
だから戒めるのである。

要するに、人間の本能は、結果「破戒」となる事を求めているのだ。
ルールを知らぬ者は、その欲求から素直に行動するし、ルールを知った者は、罰を怖れて欲求を抑圧している。
どちらにしても根本の欲求は消せずに抱き続けている。
だから「悪」だと言うのである。

『良心』とは、後天的に獲得する能力

では「善」であると言う人間は、なぜそう思えるのか。
善であると言うことは、ルールを破る欲求を持たない、もしくはルールを破る欲求を抑制する意志を持っているという事である。
生まれながらにそれを持っていると思えるのは何故か。
僕はそう思わないので推察でしかないが、社会からモラルを埋め込まれて今の自分の善悪の定義がある事を見失っているのではないか、と思える。
自分の中の善悪の定義は自然発生したものだと思い込んでいるから、人間は生まれながらにして善であると思えるのではないだろか。
罪人が罪を犯したのは、その者の環境から悪意を埋め込まれてしまった為であって、本来の自分の良心に立ち返れば、自分の罪を悔やみ、それによって二度と同じ過ちを犯さないだろう、と思っているのではないだろうか。

とんでもない誤りだ。

善悪の定義は、例えば親に、例えば社会に埋め込まれてきたものであって、自然発生などするわけがない。
人間の自然の姿とは本能であるのだから。
そして当然、良心も善悪の定義を作り上げた人間の中にあるものであって、モラルに欠ける者は良心も不完全なのである。
良心の欠落の原因は、親や社会から埋め込まれるべきモラルが不完全であったためだろう。
また、生来一般レベルよりも欲求の強い者であったのかもしれない。
その場合、一般的な戒めの埋め込みでは足りなかったという事もあるかもしれない。
であるからして、良心の呵責に任せるという対処では、当然変わりようがないわけである。
対策としては、自らの欲求を抑制する術を与える、または罰を強める、またはその者の存在を消去する、または周囲の者がその者の欲求の発生する状況を作らないようにしなくてはならない。
良心を信じて待っていても何も変わらないのだ。
良心に頼ろうとする甘えは、前述したモラルを守らせるために蒔いた種であったはずの選民意識(人は神の子など)が生んだ悪しき副作用である。

では良心とは何か。
まず善悪の定義とは埋め込まれるものであるが、埋め込まれる善悪の定義は一人から唯一のものとし埋め込まれるわけではない。
埋め込む者によって定義は曖昧なものだ。
その曖昧な定義を、埋め込まれる側は順次自身の中で自らの定義として取捨選択して作り上げていくものである。
そして、ある程度の埋め込みが済むと、その者は埋め込まれていない定義を想像し創造するようになる。
その創造に誤りを発見した場合は、誤りを修正し、また誤りを創造した自身の思考を修正していく。
そうして作り上げた定義と、自身の思考プログラムを良心と呼ぶ。
それは、例え埋め込まれていない定義であっても、それまでに埋め込まれた定義から想像し、自らの定義を創造するプログラムであり、欲求に負けて行動した場合、どの定義に反することになるかを思考するプログラムでもあり、そのプログラムが作り上げてきた定義を破壊しようとする思考を抑制するプログラムでもある(前述した「埋め込む者よって善悪の定義は曖昧だ」と述べたのは、良心という名のプログラムが、最終的に個人の中で確立するものだからである)。
よって、我々は生まれながらにして良心を持った選民などではない。


天使と悪魔

宗教的表現で我々を表すとすると、堕天使、または悪魔であろう、と僕は考えている。
堕天使、または悪魔と二つ上げたが、実はこの違いはこの文の論点に関わる。
堕天使というのは、天国から墜とされた天使である。
それは「生まれながらにして善なる者が罪を犯した者」と同義だ。
また悪魔というのは、「生まれながらにして悪なる者」と同義である。
僕は敢えて例えるとしたら後者だと論じてきたが、僕の真意はそれで終わりではない。
人間の根本・本能・欲求は、人間の作り上げてきた善悪の定義上では悪であると訴えてきたが、それを立証した上で、さらに訴えたいことがある。
前述した良心という名のプログラムが、人をただの「悪魔」ではなく、「天使になろうとする悪魔」にさせるプログラムであることを。

「天使」という存在、それは既に努力せずとも天使なのである。
特に良い事をしようとせずとも、存在自体が善なる者なのだから当然だ。
しかし、「天使になろうとする悪魔」は何もしなければ「悪魔」ではあるが、努力して「天使」になろうとしている存在である。
自分を悪魔であるという事実から目を背けずに自覚を持ちつつ、天使に憧れ、現状を克服し、憧れの存在へ一歩でも近づこうと努力する存在である。
その存在の持つ意志は、自らの生まれを克服しようとする向上心であり、善への憧れである。



そう考えてみて、読者は如何思うだろう。
この存在の思考を、素性を否定し嘆く悲観的な思考と映るだろうか。
これを悲観的とする人は、自身の良心を信じ、他人の良心を信じ、人間を天使と思う事を前向きな思考であると思うのだろうが、果たしてそうであろうか。
前述の僕の論理をもう一度思い出してもらいたい。
「天使という存在は、それは既に努力せずとも天使なのである」という部分だ。
既に善人である存在が、善人であろうと努力するだろうか。
しないだろう。
善人(天使)でい続けたいとは思うだろうが、それが善に対する前向きな思考と言えるだろうか。
それこそ、まさに消極的と呼ぶに相応しい意志ではないだろうか。
確かに、自身を悪魔であると認識する思考のみを抽出して評価したとすれば悲観的と評価されるかもしれない。
そのまま悪魔である自覚から負い目を感じ、自らの自覚によって自らを暗い淵へ落とし、そこから這い出ようと思わなければ、である。
それは、ただ単に「悪魔」なだけなのだ。
その事実を知っているだけなのだ。
僕の主張するのはそれではなく、その事実を自覚した上で、それを乗り越えようと思考するものである。

もちろん、それは容易いことではない。
楽観ではなく、前向きに自らを常に改善しようとし、自らを戒め、自ら向上しようというのだ。
自身を悪魔であると認識する事により、その認識に落ち込むこともあるだろう。人間の本能である欲求は常に自身の中にあり、事ある毎にその欲求を抑制しなければならない苦悩に苛まれることもあるだろう。
いつまで経っても自身に成長を見出せずにイヤになることもあるだろう。
大変な己克心が必要なのだ。
そして、「天使になろうとする悪魔」という思考の元、人が死ぬまで努力したとして、その者は「天使(善人)」に成り得る訳ではない。
やはり死ぬまで「天使になろうとする悪魔」である事に変わりはないだろう。
大抵そう思考する者は、その結論にも気付いているはずである。

人とは、所詮その程度の存在でしかないのだ。
しかし、それに立ち向かって行く。
あなたには、それが出来るか?
出来ると思えず、自身と他人の良心を信じ、自らを神の子であると思い込むか?
もちろん、その先はあなたの自由だ。





僕は宗教の存在自体は否定しないし、敬虔な信者の方は尊敬にさえ値すると思っているが、その発生理由を神聖なものであると盲信する事は批判に値するとも思っている。

宗教が戦争の理由として煽動する者は、きっと盲信者ではないだろう。
しかし、煽動される者は盲信者である事に疑いはない。
そして、煽動される者がいなければ、煽動する者も存在し得ないからだ。